【ドリフターズとその時代 / 完全版 笹山 敬輔 (著)】を聴いて挑戦し続ける大事さを感じたので、皆様に共有さして頂きます。
いかりや長介は挑戦しつづけた男
ドリフターズのリーダーいかりや長介、彼ほど死ぬまで困難に立ち向かい、結果を残した人間は少ないのではないでしょうか。
彼がミュージシャンを志し上京したのが28歳の時、それまでも音楽活動を静岡で行っていましたが、芸能界を目指すには遅すぎるスタートです。
こだわりが強く対人関係にトラブルが多い長さんがドリフターズを結成したのが、1962年。その2年後にメンバー4人がドリフターズを脱退。その後新メンバー加入で、いかりや・加藤・荒井・高木・仲本の5人体制となります。
ジャズ喫茶で下積みを重ねていき、ビートルズの前座をした事も経験されます。
ドリフターズがブレイクするのは1969年『8時だョ!全員集合』です。この時長さんは38歳。ここまででもGRIT力を感じますね。
ドリフターズは同じネタは一切せず、アドリブもしない事にこだわり、ひたすら練習をする事で結果を出しました。
その後荒井注の脱退&志村けんがドリフターズに加入します。
新メンバー志村けん&加藤茶コンビの人気で、さらに視聴率が伸び続けます
しかし、1980年初頭漫才ブーム・1980年中盤のお笑い第三世代の出現で人気は下火になります。
『8時だョ!全員集合』は1985年に終了します。最後の半年間は長さんと制作側のトラブルで台本は志村けんさんが作っていたそうです。
その後、俳優へ活動を移転していきます。
妻の死を乗り越え、俳優業のキャリアを積んでいき、数々の映画やドラマに出演していきます。
最後の出演映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の公開前に原発不明頸部リンパ節癌により入院しており、家族には「余命はもって8ヶ月」であると宣告されていた。映画内では迫真の演技で評価された。
2004年3月15日、癌の転移により東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院し、3月20日午後3時半に死去。満72歳没(享年73)[13]。奇しくも、ドリフの結成40周年という節目の年にこの世を去った。
志村けんも挑戦しつづけた男
志村けんさんがコロナパニック中に亡くなられた事は記憶に新しいですが、ドリフターズ加入・脱退後も第一線で挑戦しつづけた人でした。まとめるには長くなりすぎるので、ぜひ『ドリフターズとその時代』をお聞きください。人生に活力をくれる一冊です。
合わせて聴きたい一冊
やり抜く力、目標達成、挑戦しつづける大事さが理解できる一冊としてやり抜く力 【GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける /完全版 アンジェラ・ダックワース (著)】をおすすめします。
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